露木先生の「雲の授業と戦争のお話し」2024 学童の夏休み

2024.8.9

露木先生の「雲の授業」が行われました。

雲のできる原理を実験を通して学び、空には層があることを知り、食塩水と真水と牛乳を用いて実験で入道雲をつくってみる。

みんな真剣な面持ちでした。

 

露木先生はすごいです。一回の授業にこれだけの準備と知識だけでなく、映画の話や入道雲のなかにパラシュートで落下していった人の話。

子どもたちはおもしろい。

 

子どもたちの表情を見てください。

学ぶということに目を輝かせる子どもたち。露木先生の授業はいつも「不思議だな」がいっぱいです。

そのあと、「戦争のはなし」を聞きました。79年前の今日、長崎に原爆が落とされました。

印象的だったのは、戦争ははじまってしまったらだめなんだ。始まる前にとめることが必要なんだと、何度もおっしゃっていたことです。

びっくりしたのは、露木先生のご準備された写真でした。

人の生首を人がもっている写真だったのです。

子どもたちはどんな気持ちだったろうとあとあとまで考えました。

広島の原爆資料館で手に入れた写真の数々

そこには、ゲームの世界ではないリアルな過去の現実がありました。

後に、露木先生がおっしゃったのは、

「衝撃的に感じる」ことも重要
私はその考えに与します。戦争は「人間が人間でなくなる」ことの最も象徴的な記録のような気がしました。
写真の人物は平凡なオヤジだったはずです。決して人を平気で殺せるような人間ではなかったはずです。それが簡単に殺す、しかも、それは咎められない。
あまりにひどいことです。戦争というものの怖さです。
私もその場になればそうなったかもしれいという怖さは、やはり子どもたちに伝えたいことでした。

自分たちが生まれる前、ほんとうにこんなことがあったのだと子どもたちは思ったと思います。

露木先生の「戦争の授業」は真剣です。子どもたちに伝えたいことがある。戦争というのはゲームの世界とはちがう。子どもたちはきっと怖かったでしょう。

でも怖いという感情が抑止につながることもあるのかもしれません。

原子力爆弾がつくられた経緯。アインシュタインの話。広島が焼け野原になったモノクロの写真。

勉強会は、「平和へ」という絵本で締めくくられました。

 

午後、四十八瀬川に川遊びに行った帰り道、子どもたちが空を見ながら話しています。

「あの入道雲のなかではどんなことがおこっているんだろうね。」「下の層の黒い雲と上の入道雲では風の強さが違うんだろうね。」「白い雲と黒い雲の決勝戦だね。」

学びから興味の世界が広がりました。

「平和へ」

ぼくたちは、みんな ちがう考えの持ち主だ。

生きている時代や、 くらしているところによっても

ほしいもののしゅるいは ちがうと思うな。

平和ってね。

人やくにによって ほしいものにちがいがあるということを

みとめあうことなんだ。

自分と違う人がいても、それはあたり前だよね。

みんな ちがっていて いいんだよ。

もし、ほとんどちがいがなくて、

おなじような人間ばかりだとしたら、

とてもへんだと 思わないかい?

たとえば、きみが自転車にのりたいと思ったとき

ぼくや 他の人も自転車に乗りたくなったら、どうしよう。

自転車は 一台しかなかったら、どうなる?

ほかの人と いっしょにくらすなかでは、

そんなことが よくおこる

きみがのりたいと思った自転車に すぐにのれないときもある。

もしかしたら、まっていても、のれないことがあるかもしれない。

そんなときは、やさしい 平和な気持ちになんか、

とてもなれないよね。

うん、ないちゃうかもしれない。

だから こんな人もいるよ。

だれともいっしょにいないで

自分ひとりで なんでもやってしまう人だ。

けれども、いつも ひとりでいることは、

どんなに強い人でも、さびしくて つらいものだと思うよ。

いとりぼっちだと、ほんとうの 平和なきもちにはなれないよね。

でもね、みんなが ほしいものを とりあったら、どうするの?

そうだねえ。

いいあらそいをしたり、けんかになって、なぐりあうかもしれない。

どちらかが勝って、どちらかが負けるまで、

そんなけんかが ずーっと つづくかもしれない。

もちろん、アッというまに 終わってしまうことある。

でも、どちらかは、ほしいものをあきらめなくちゃならない。

そんなことが 起きたら、もう 平和はおしまいになるね。

けれども、ぜんぜんちがう道もあるよ。

それは、話しあいという道だ。

おたがいに 話をよくきいて

けんかをしないで 解決するように 努力すれば、

ほしいものを すこしは 手にいれられるのではないかな。

それから、こんなこともあるよ。

このけんかとは まったく関係のない人が

あいだに はいってあげるんだ。

その人なら、両方のいいぶんをきいて、

だれが ルールをやぶっているか みつけられる。

そして、平和にくらす方法を 考えてあげられる。

たとえば、ぼくはそとで いっしょにボールであそびたいのに、

きみは家のなかで、ゲームをしたいとしたら、

二つのあそびは まったくちがうから なかなかきまらない。

そんな時、三番目の遊びを考えようと、

だれかがいいだすかもしれない。

それは、はじめに やりたいと思ったものとは ちがうけれども、

ぼくにとっても、きみにとっても、おもしろいあそびかもしれないよ。

だから、きみとぼくで 意見がちがうのは、いいことなんだ。

なぜって、

あたらしいあそびや おもしろいことを

見つけられるかもしれないだろう?

だけど、三番目のあそびが みつからなかったら、どうするの?

子どものあそびより もっとむずかしい おとなの世界で、

三番目の道がみつからなかったら、どうするの?

そんなときの気持ちは こうかもしれないよ。

せまい道を すれちがおうとした車が 両方で道をふさいじゃって

動けなくなったみたいだと。

そんなとき、前にすすむことばかり考えないで

ほんのすこし、どっちかが うしろにさがって、道を譲ったら、

うまく すれちがえるのではないかな。

あともどりした車のドライバーは

とてもよい方法をえらんだことになるよね。

おなじようなことは、家でも 学校でも 起こっている気がするなあ。

ぼくたちが 道をゆずったドライバーのようにすれば、

いつのまにか、ほかの人も変わってくるんじゃないかな。

国と国とのあいだでも、おなじようなことが起きている。

だけど、これはむずかしくて、なかなか かんたんにはいかない。

道のえらび方によっては、戦争という おそろしいことになってしまう。

このときだって、ちょっとたちどまって 話しあい ゆずりあいをすれば、

平和は守られるはずだ。

でも、そんなにうまくいくかなあ?

そうなんだ。自分の国の利益になることばかり 主張していては、

話しあいは どうどうめぐりで 解決しない。

どちらかの国が 平和へのはじめの一歩をふみだすとしたら、

この勇気ある一歩は、とても 重みのあることだと思うよ。